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2020.06.01

[レポート] 第5回大人の学びなおしウェブ講演 (2020/5/26)

南山大学人文学部キリスト教学科の佐藤准教授を講師に迎え、「悩み苦しみ多き人生を、それでも生きる」をテーマにご講演いただいた。本講演は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、Zoomウェビナーを用いて開催された。(主催:一般社団法人中部圏イノベーション推進機構)

◇講演要旨
現代社会はメリトクラシー(能力主義)が主流であり、AIの普及にともない一層、労働する人間としての能力の高さが求められている。だが、不幸にも能力に恵まれなかった人はどうなるのだろうか。実際、私たちの大半は、高い能力をもつわけではない平凡な人間である。また、仮に高い能力や知識を訓練や経験によって獲得したところで、それらをいつまでも保てる保証がどこにあるのだろうか。とりわけ、急速に社会が変化するなかで、私たちはつねにその社会にアップトゥデイトに適応することが求められ、そのせわしなさに疲弊し、「おいて行かれるかもしれない」という不安を抱えている。そして、今回の新型コロナウイルスが露呈したように、なんとか安定した生活を構築できたかと思っても、社会の大前提が不意に崩れることで、たちまち先行きの見えない生活に落ち込んでしまう「底なしの」不安が奥底にうごめいている。私たちの多くは、そんな悩みや苦しみ、不安を抱えている。だが、能力主義の社会のもと、「自己責任」という名のもとで、そのような悩みや苦しみを抱えた人々は時に忘れられがちである。それは果たして正しい社会であろうか?

そうした「弱き人々」に常に視線を向けてきた一つの立場が宗教である。宗教は、弱い人々を、様々な仕方で精神的・社会的に救済しようとしてきた。しかし、多くの宗教に通底するのは、その救済思想の前提にある、独特な思考法である。能力主義的社会に抵抗する考え方としては、現代であれば、個性の尊重の名のもと、いわば「みんな違って、みんないい」という仕方で各人の自分らしさを肯定する考え方が容易に思いつく。これに対し、キリスト教であれ、仏教であれ、イスラームであれ、その他多くの宗教は、そのような心優しいメッセージの代わりに、いわば「みんな違って、みんなダメ」という仕方で、各人が皆、煩悩や欲望を抱えた「悪しき存在」であることをまず主張する。一人一人生き方は違う、だが、みんなその根底は悪である。その自らの悪を直視することから、宗教は始まるのである(本講義では、パウロや親鸞といった宗教家、カントら哲学者などの実例を取り上げた)。

そのような宗教の考え方は、時に、「だから悔い改めるために~せよ!」といった、ある種の脅しの語法にもなりかねない危うさをもつ。だが、単純な自己肯定が「自己への開き直り」に転じかねないのに対し、宗教の鋭さは、どこまでも悪しき自己、優れていない自己、愚かな自己への批判的まなざしを忘れないままに、それでいて、そのような自己としてどう生きるべきかを教える点にある。「つねに不安におびえ、悪しき、愚かな凡人」として私たちが現代社会、特に「コロナ時代・コロナ以後の時代」の社会においてどう生きるべきかを、哲学・宗教の観点から考えた。

◇参加者の声
・不安や悪とは何ぞやと考えるいいきっかけになりました。
・ちょうどNegativeな転機があったところなので、今回の講義を拝聴して、ちょっと心が軽くなりました。宗教は弱者を救うものと思っていましたが、その救い方も考え方や見方によって全く異なるものだと、目から鱗が落ちる思いで、楽しく拝聴しました。ありがとうございました。

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